その38 待ち望んだあと

その38 待ち望んだあと

待ち望んでいた瞬間が目の前に現れたとき、わたしの心はすでに別の場所に移っていて、それについての関心がすっかり薄れてしまっていることがある。あの頃、あんなにも強く望んでいたのに、今のわたしにとってはもうなんの価値もなく、ときには厄介だと思うことすらある。あの感じはなんだろう。当たり前すぎるくらい当たり前なのに、面白い。

嫌で仕方ないことが待ち受けている時、「明日の今頃はもう終わっている」と、その向こうにある未来に焦がれる。心が逆立つ出来事があっても、そのあとにも日常は何事もなかったみたいに続いていくことを知っている。その確かさが、心の拠り所になっている。だから不安な時には“着地する場所”を先に確認しておきたくなる。

興味の対象は、驚くほど簡単に移り変わる。かつて欲しかったものが、今となってはどうでもよくなる。それどころか、昔の自分の執着を、どこか他人事のように感じてしまう。どうでもよくなった頃にそれが届くと、困惑が生まれる。迷惑、という言葉に近い感情すら湧く。
結局のところ、物事について考える時間が、結果そのものよりも強く心に作用しているのかもしれない。想いを馳せる時間は、心の拠り所を探す時間だったのかもしれない。待ち侘びていたのは、その物事そのものではなく、切なる想いや願いの形だったのかもしれない。あるいは、物事の周りを虚ろに彷徨いながら、救いを探していた時間そのものだったのかもしれない。手に入ってしまえば、探す必要がなくなる。探す必要がなくなれば、あの虚ろな時間も終わる。
だから、手に入った瞬間に熱が冷めるのだとしたら、それは少しだけ寂しい。でも同時に、腑に落ちる。欲しかったものが届いた、というより、待っていた自分が救われた。救われたあとに残るのは、物事ではなく、ただいつもの日常だ。

物事と自分との間には、いつだってある一定の距離がある。その距離があるから想像して、焦がれて、そこに救いを見出す。けれどその距離は、物事と自分との決定的な隔たりでもある。
そしてわたしは、その隔たりで心を守って生きている。

Back to blog