その37 新しい日課

その37 新しい日課

会社勤めを辞めてから、明らかに動かなくなった。
危機感を煽る夫の言葉に促され、ようやく重い腰をあげてウォーキングをはじめた。
義務的に始まった新しい日課については、考える前に動き出すことが継続のポイントだ。何も考えず、起きて、着替えて、歯を磨いて家を出る。感情より先に体を起こして身支度をする。これは会社員時代に編み出した技だ。
横断歩道を何度か渡り、住宅街を抜け、川沿いの遊歩道に入っていく。橋をくぐり、公園を抜け、歩きやすくなったり歩きにくくなったりしながら、隅田川に沿って続いていく歩道を、その日の気分で歩く。
けたたましく鳴きながら柿の木を飛び回る小鳥。誰もいないテニスコート。壮大な橋脚から伝わってくる高速道路の走行音。
自販機のボタンを押す作業着姿の男性と、その口からこぼれる白い息。ガコンと落ちる缶の音のほうへ耳を傾けたまま、プルタブを開ける音を待つ。マゼンタ色の彼岸花を初めて見た。昨今の亜熱帯化で、彼岸花すらも冬に咲くようになったのか。それも南国色に変化して。
川沿いの遊歩道は、徐々にその景色を変えながら前にも後ろにも続く。再開発により、川沿いは自然というより街の様相を帯びている。大きなマンションが立ち並び、広場や公園が整備され、広く綺麗に舗装された遊歩道を住民たちが行き交う。
そんな中、ところどころ古いままの場所が点在する。むき出しの石場や、鉄材の突き出した部分に、黒い大きな鳥が等間隔にたむろしている。そしてその多くが羽を緩やかに広げ、羽だけを前後に規則的に揺らしている。
街の隙間でそこそこ大きな黒い鳥が、飛ぶでもなく鳴くでもなく、鳥らしからぬ動きを繰り返している姿が点々と並ぶ光景は、なかなか異様だ。あれは黒鷺だろうか? 時々白いのもいる。ならばこちらは白鷺だろう。
穂がはぜて綿毛になったススキが、景色ごとセピア色に染めて柔らかく揺れている。ススキ越しに流れる川は、秘密めいた特別な質感を纏っていて、思わず覗きたくなる。草の間にこぼれる水面の光を目で拾いながら歩を進めていくと、時々ガサガサと枯れた草の根元を揺らす音が耳を掠める。その冬の風景が、わたしを少しずつ川のほうへと向かわせる。
すぐそばまで近づいた時、ガサガサの正体が、草の根を揺らしながら動き回るのが見えた。思わずヒッと後ずさる。そこには、ざっと見ただけでも十匹ほどの大きなネズミが、忙しく蠢いていた。
じわりと発汗を感じたあたりで次の橋を渡り、向こう岸から折り返す。そんな感覚で歩くと、大体一時間ほどのウォーキングになる。
家に戻り、朝の景色を反芻しながらシャワーを浴びる。そして、洗い流した後も残る景色を調べたりする。
鳥は鷺ではなく、カワウだった。あの不気味な動きは、耐水性に欠ける羽を乾かす行為なのだそうだ。水に潜り食料を獲得し重くなった体を、川のほとりでのんびりとした速度で乾かしていたのだ。それからなんとなく「そんなわけないだろう」と思っていた、あの南国彼岸花についても調べてみたが、やはり彼岸花などではなく「ネリネ」という名の花であった。

日々は川のように流れ、ほとんどの物事は知らないまま通り過ぎていく。けれど、その物について、その事について正体が見えた時、物事への印象はガラリと変わる。
ひっかかりをほどきたい、わかりたいと思う気持ちは、物事と自分の心をあたたかく照らす。重い腰をあげてよかった。日課に手を引かれるようにして、穏やかな気分で、鮮やかな風景を楽しんでいる。

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