その60 忘却に照らされる
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公衆電話の受話器を置く音
丸いボタンの券売機
道路脇の排水路
稲刈り後の株を踏んづけて渡る、秋だけの近道
心震わせて読み耽ったのに何もかも忘れてしまった物語があることを知っている。
後ろ向きでも、長い休暇中でも、人生は進む。忘れ物を取りに戻っている最中も、過去の記憶を思い出したり忘れたりしながら、わたしだけ進んでいく。
思い出そうとした途端に導火線に火がついて、その勢いが、早々にそれを諦めさせる。熱い湯を冷ますように溶けていく氷を掬い出そうと湯をかき混ぜれば、氷は瞬く間に溶けてなくなる。
歳を重ね、引っかかりを早々に手放すようになった。思い出すかわりに、不安が煙のようにたちまち充満するから。この先もっと多くのものを、こんなふうに手放していくのだろう。そんな予感に覆われたまま、穏やかな寝室のドアは開けられない。
なんでもない時間が、長い間忘れていたどうでもいいことにも似た顔でこちらを見ている。
忘れたこと、忘れないこと。思い出せない時間。蒸し暑い夏の夜、忘却がわたしの行き先を遠くからふわりと照らす。
今宵もシャワーを浴びて、髪を乾かし、冷蔵庫から一本目のビールを取り出す。ひとまず、どこで何をしていたって進んでいく人生に乾杯しよう。