その35 知り得ないこと

その35 知り得ないこと

知らないこと、見えないこと。それらに思いを馳せる時。

鏡に映る40代の姿と、考え方やリズムの癖を、自分自身として認識している。でも、この皮膚の内側では、まったく別のスケールの自分が存在していて、顕微鏡サイズの細胞がせわしなくその機能を果たしている。細胞が栄養を取り込みいらないものを出して、血液が酸素と熱を運んで全身をめぐっている。わたしはその事実について、「そういう仕組みになっているらしい」というざっくりとした知識しか持っておらず、当然その場面を自分の目で見たことはない。さっき食べた秋刀魚の塩焼きは、もう腸絨毛にチューっと吸収された頃かな。傷の内側、今忙しいだろうな。黙々と働き続ける自分の細胞に、ときどき想いを馳せることがある。真相はわからないけど、たしかに起きているはずのことに、思いを遠くまで至らせる。

去年の今頃、わたしの隣でこまは寝息をたてていた。それは揺るがない事実だ。
わたしはこまの誕生日を知らないけれど、こまには生まれた日があって、小さな小さな赤ん坊の頃があった。わたしはその事実に、何度も想いを馳せた。それは夢のようで、嬉しくて、愛おしくて、懐かしくて、悲しい時間だ。

この社会を生きていくためには、事実を認識して受け入れる、現実的な視点は不可欠だと思う。そして、自分自身の視点の偏りや歪みを少しでも是正していくためには、「自分は知らない」ということを、ちゃんと認識している必要がある。けれどそれだけでは、知り得ない事実を前にしたとき、行き詰まってしまう。
すこしの事実を握りしめて、知り得ない真相に想いを馳せる時間。これは、「知るための時間」ではない。自分の中のひとつとして、物事を自分の内側に迎え入れていくような時間だ。
わたしには決してたどり着けない真相がある。知り得ない物事に心を向けて想像し、真相ではないかもしれない景色を思い描くこともまた、事実との向き合い方のひとつだ。

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