その61 静けさ

その61 静けさ

仕事を辞めて一年が過ぎた。この一年、お店のあれこれをしながらお気楽に日々を過ごしてきた。
雨の日は洗濯物を干さない。台風の日はなるべく外出を避ける。暑ければエアコンの温度を一度下げて、用事は夕方に済ませる。この異常な天候も、そんな軽い対処でやり過ごせてしまう快適な日々だった。
ゆっくり静かな時間の中に身を置いたことで心を十分に休めることができたので、ここらでそろそろ働きに出ることにした。できれば在宅でできる仕事がいいなと探していたのだが、ふと面白そうな求人が目に留まり、それが今の仕事となりそろそろ2ヶ月が経つ。週に2日程の勤務で、職場の空気もよく、今は軽やかな気持ちで働けている。
とはいえこの息苦しい暑さの中の通勤は、一年間の快適なブランクを経て、苦痛以外の何者でもない。葛のような重い暑さに呑み込まれぬよう、最短のルートを諦めて、なるべく屋外にいる時間が短くなる通勤ルートに変更した。それでもどうにも会社に着く頃には汗だくだ。

エアコンの効いた職場に着けば、あとは淡々と時間が過ぎていく。そして終業のチャイムが鳴れば、また同じ道を戻る。

会社を出た途端、仕事を終えた開放感を、西日が照射さながらに消し去って、ついでに地下鉄の入口の階段を駆け下りるわたしの背中に向かって、気怠さを投げ込んで去っていく。

なんだかひどい目にあった気分で家に帰れば、猫たちがおかえりと迎えてくれる。
猫たちに挨拶をして、手を洗っておやつをあげる。弁当箱と水筒を洗ったらシャワーを浴びて、夕飯の準備だ。手の込んだものは作らない。切るか茹でるかして盛るだけの料理を2〜3種作ったら、1日の仕事は終わりだ。
ビールをグラスに注いで飲み干したら、そのままソファにからだを預けて、ふわぁ〜っと伸びる。一日中エアコンの効いたこの部屋で、天井のモビールが揺れて、猫たちはまた、居眠りを始めて、ビールが身体中に染み渡っていく。外の世界からスーっと解放されていくようなこの清涼感がたまらない。
海に飛び込んで、浮かんできて、仰向けで身を任せ、波に揺られる。海原に波動が分散して、やがて水中の静けさに包まれていく。そんな深く静かなひとときだ。これは「猛暑に片道50分ほどかけて通勤して汗だくで帰ってきてほっと一息ついている」、だけでは表現できない大袈裟な時間だ。

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