その47 よく聞く言葉

その47 よく聞く言葉

耳障りの良い前向きな言葉が共感を呼び、スローガンのように広がる。流行が個性のように多用されるとき、ウンザリだと感じることがある。でもそれは多分、その言葉そのもののせいではない。

母はあまり物事を引きずらない。おそらくそれは達観とも違う。当たり前に身につけた、母なりの人生との向き合い方なのだろう。母を見ているとそんなふうに感じる。その上陽気で友人も多い。そんな母が、自転車で海まで出かけて行く時期があった。今からもう20年近く前の話だ。
実家から自転車で20分ほどの場所にある海は、近いと言えば近いけど、散歩がてらふと立ち寄るような場所でもなかった。
音楽を聴きながらほんの数分海を眺めて、また自転車に乗って元来た道を帰る。ただそれだけで心がすこし軽くなって、帰り道は景色が違って見えると、母は言っていた。海を見ていると、自分の悩みがちっぽけなことのように思えてくる、と。
わたしにはその感覚がわからない。自分として生きているのに、海がどれだけ大きかろうと、それを眺めて自分の悩みがちっぽけに感じたことはない。だから誰かがその言葉を口にするたびに、ああ、よく聞くアレね、と思う。
それでも母がそう言った時、その言葉はわたしの中にすとんと落ちた。
物事を引きずらず、海まで自転車を走らせ、数分眺めてまた帰ってくる。大げさでも特別でもない、ただそういう人だから。言葉に重きを置いていない人の口から出てきた言葉だから。
飾らない思いから出てくる言葉は、美味しくできたからと無造作なタッパーに入れて持たせてくれるおかずに似ている。凝った包装も洒落た器もない。でも腹に入る。

耳障りの良い言葉を聞くと時々、その時の母を思い出す。向こうに広がる海原、遠くであいまいに揺れる水平線。海岸まで降りずに、防波堤のこちらから海を眺める母の姿が、今もずっとそこにある故郷の景色に小さく佇んでいる。

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